KOHEY NISHI / にしくん 公式サイトはこちら

KOHEY NISHI(にしくん)って何者?

KOHEY NISHI画像

KOHEY NISHI(にしくん)とは何者なのだろうか?

身長109cmにしくんって何者?という旧ブログにしくん.netの記事は、2016年12月18日に公開して約59万PVを稼いだ。今回の記事は、その記事の進化版。幼少期のガンと難病の話からアダルト業界に行くまでに加えて、アダルト引退後の葛藤、IT企業執行役員時代、CBDエバンジェリストになった経緯、こんなに色んなことをして何を目指しているのかについて書いた。

ちなみにかなり長い文章になった。なかなか濃い自信作だけれど長い。なので、時間があるときに読むことをお勧めする。そして、頑張って書いたので良いと思ったらぜひ広めて頂きたい。

幼少期|ガン(横紋筋肉腫)と難病(ムコ多糖症モルキオ)

1993年4月23日。

東京都杉並区でKOHEY NISHI(にしくん 、西晃平)は生まれた。

生まれた瞬間、僕は泣かなかった。赤ちゃんは、最初に泣くことで呼吸を開始する。泣かなければ窒息死する。ナースに両足持って逆さ吊りにされてようやく泣いた。新しいことに対して恐怖心がなく冷静なのは、生まれた時からだったようだ。そして、我ながらかなり波乱万丈な人生が始まる。

生まれた時は、周りより身体がデカかった。特に健康に問題もなかった。豆乳をめっちゃ飲んでいた。

横紋筋肉腫(小児がん、脳腫瘍)

しかし、3歳のある朝、異変が起きる。身体の左半分が動かない。表情も左半分だけ変えられない。左半分が完全麻痺していた。救急車で運ばれる。病名は、横紋筋肉腫。いわゆるガンとか脳腫瘍のようなもので、右脳に大きく複雑に存在していた。結果、左半分完全麻痺状態。3歳は、細胞の成長が非常に早い。そして、動いたり喋ったりはまだおぼつかない。だから、すぐには気づかず一瞬にして身体半分が動かなくなるほどの腫瘍が出来上がった。

まずは至急外科手術で摘出しなければならない。しかし、3歳は全身麻酔が出来ないから目を覚ましたまま脳を真っ二つに開いて手術する必要がある。大人ですら脳の外科手術はわずかなミスが致命傷で大きな後遺症を残す危険性があるのに、3歳の完全麻痺になる程に入り組んで大きな腫瘍はとてつもなく厳しい手術。ほとんどの医者には出来ないが、偶然にも来院していた医者が、急遽執刀してくれることになった。手術は成功した。手術後、久々に少しだけ身体が動くようになった僕は、ナースにお願いした。

「手術後、初めての面会となるこの後、パパとママを驚かせたいから、座って待ってたい!」

その時の、無事に手術に成功し、しかも座ることまで出来るようになった僕を見て、驚きと感動で泣いて笑った親の顔は今でも忘れない。除菌のため、頭にはモジャモジャのビニールを被り、マスクもしていたから、見えていたのは目だけだけれどしっかり覚えている。

しかし、これで終わりじゃない。むしろ始まりだ。目先の死を覚悟から、近々死ぬかもしれないに変わったくらい。今の癌治療は進化しているが、これは23年前の話。生きる可能性はとても少ない。脳腫瘍を取って終わりじゃなくて、抗がん剤、自家骨髄移植、放射線治療がある。むしろこれからの方が辛い。髪は抜け落ち、毎日のように痛いし吐くし、口内炎は20個くらい出来て唾を飲むことすら痛かった。夢は殺される夢を何度も見て起こされる。現実に身体が痛いから、本当に痛い思いをして殺される夢だった。しかし、脳外科手術で頭を真っ二つに切り開いた時に全身麻酔じゃないから目を開けていて意識があり泣かずに真顔だったらしい僕は乗り越えた。熱が40度を超えた時なんて、母親とオセロをしていた。そして約1年の入院生活を経て退院した。身体が衰弱し切っていたのでよく病院には行ったが、再発はなく6歳になった。子供の場合は細胞が活発なので、2年再発がなければ一安心…した矢先に次の壁が現れる。

ムコ多糖症モルキオ(ライソゾーム病、難病)

そういえば身長が伸びていなくて、生まれたときは大きかったのに周りに大きく抜かれている。運動能力が低く、歩いたり走ったりする時の様子がおかしい。骨が変形している!?

ガンで身体の異変に鈍感になっていたが、明らかにガンの影響じゃない症状が出ている。そして宣告されたのがムコ多糖症モルキオという難病だった。

日本に30人ほどしかいないと言われている難病。自分の病気だが難しくて上手く説明できない(という、かぶっちゃけ本人もよくわからない)のでWikipediaの情報を載せることにする。

ムコ多糖症とは?

ムコ多糖症(ムコたとうしょう、Mucopolysaccharidosis、MPS)は、遺伝的な要因による先天性代謝異常症であるライソゾーム病の一種である。医学上の正式名はムコ多糖代謝異常症。日本では、特定疾患に指定されている。
リソソーム内の加水分解酵素の先天的欠損あるいは異常により、リソソーム内にムコ多糖の一種であるグリコサミノグリカン(GAG)が蓄積する疾患である。GAGは人体内で細胞間結合に寄与する役割がある。

Wikipedia
ムコ多糖症モルキオ症候群(MPS IV型)とは?

欠損酵素の違いによりMPS IV-A型とMPS IV-B型の亜型があるが、圧倒的にIV-A型のほうが多い(欠損酵素はIV-A型:N-アセチルガラクトサミン-6-スルファターゼ(GALNS)、IV-B型:β-ガラクトシダーゼ)。遺伝形式は常染色体劣性遺伝である。日本のMPS IVの患者数は、衛藤班による平成13年の全国調査では32例であった[15]。オーストラリアでの発症率はIV-A型が206,000人に1人。
骨及び関節障害が特徴的で、ムコ多糖症の中でも最も強い骨変形を示す。MPS IV-Aの重症型の場合、出生直後から胸腰椎の後・側湾、胸骨の突出といった変形が認められる。幼児期以降、短胴性の低身長、股関節などの形成不全を伴う四肢変形、脊椎側湾症/後湾症、環軸椎亜脱臼といった骨変形症状が著しくなる。特に環軸椎亜脱臼は生命予後に直接影響するので管理が重要である。関節障害は他のムコ多糖症と異なり、関節の過伸展や靭帯弛緩により不安定性をきたすのが特徴である。そのほかの臨床症状としては角膜混濁、難聴心臓弁膜症がみられる。なお、精神発達の遅滞はなく知能は正常である。無治療の場合、10歳代後半に環軸椎亜脱臼に伴う呼吸不全などで死亡することが多い。軽症型の場合でも同様の症状が認められるが、その程度は軽度で進行も比較的に緩序であり、成人以降まで生存することが多い。

Wikipedia

簡単に言うと、骨が成長しないし変形して、目とか耳とか心臓にも異常が出て、だんだん寝たきり状態になったり呼吸出来なくなって20歳前後で死んじゃうかもしれない治療法の分からない難病。って感じ。

しかし母親は言った。

「良かったね!今度の病気は、大人になるくらいまではとりあえず生きられるんだって。がんを乗り越えたんだから、治しちゃうよ!コウヘイなら大丈夫!」

後から知ったことだが、母親はものすごくネガティブで、だからこそネガティブが移っては障害を持つ僕は生きていくのが大変になるだろうと強引にポジティブな言葉を投げ続けてくれたらしい。裏ではめっちゃ泣いてたらしいけど、僕の前ではいつも笑っていた。

そして、医者から提案があった。

「骨髄移植が、効果がある保証はないけれど良い方向に行く可能性はある。ドナーを探して挑戦してみないか?」

迷わずYesと言った。

骨髄移植のドナーは、簡単には合致する人が見つからない。しかし、すぐ見つかった。そして、始めた。骨髄移植というのは、他人の血を入れて自分の血を壊し、血を完全に入れ替えること。身体が拒否反応を示したりして、かえって悪化する例も多い。つまり、実行するのも大変だし、実行したところで博打だった。

そして、上手く行った!成功しすぎた。なんと進行が止まったのだ。ちなみに、僕が骨髄移植で進行を止めた後に、海外でこんな論文が発表された。

「ムコ多糖症モルキオに対しての骨髄移植は、リスクが高い上に効果が見込めないからやらないべきだ」

ん?

…まぁ、良いや。

そうして、二つの病を乗り越えた僕は、小学2年生になっていた。

少年期と青年期|東大への憧れからギャルサーの世界へ

少年期|将来の夢は東大卒の物理学者

学校一目立つ僕は、ある時はムードメーカーで、ある時はめっちゃイジメられていた。スポーツが全く出来ないけれど、テレビゲームとカードゲームは強かった。そして、算数・数学が得意だった。

「お前はどうしても出来ないことが人より沢山ある。だから、人よりも出来ることを何か一つ作りなさい。そうすれば生きていける。頭は良くてよかったな!」

と、父親に言われていた僕は、算数と数学だけは誰にも負けないと思っていた。そして、将来の夢は東大卒の物理学者になることになった。

しかし、ちょっとズレていた。幼稚園生の頃から算数をしていて、小学生の頃には数学をしていたが、学校の勉強は疎かだった。漢字は難読漢字ばかり勉強して、学校の漢字テストの点はいまいちだった。この頃から、勉強においても「人と違うこと」が好きだったらしい。

それでも、障害のある自分は勉強で勝つしかないと思っていた。だから、小6の時は1日12時間は勉強した。ところが、学校の勉強を疎かにしていて小6の夏から塾に行った中学受験は失敗し、一応進学校の特進クラスではあるものの東大へ進むにはとても厳しいルートに進んだ。病気のこともあるからか、「頭良い!」「天才!」と言われて育っていたけれど、自分は凡人で努力も出来ないタイプだと気付き出した。

本当に東大に行くならば、高校3年間は本気で勉強しなければダメだ。そう考えて、スマブラはオンライン大会に出場し、遊戯王カードは大会で11連勝するくらいのゲーマーだった僕は、中3の終わりに友達にゲームを上げてゲームを卒業した。

この後、ゲームを失ったことで暇すぎて、まさかの勉強ではなく他にハマることになるのだが。

高校時代|東大の学生団体とギャルサーとイベサー

中3の終わり、本気で勉強する高校生になる前に、ちょっとだけ外の世界を知りたいと思った。中高一貫男子校6年で、女の子にも興味を持つようになった。当時僕は足が弱いから、一人でも友達とも出かけることがほぼなかった。そこで手を出したのが、当時の中高生の間で流行った前略(SNSと掲示板の複合サービス)とmixi(日本生まれのSNS)だった。

そして、mixiで「高校生 イベント」と検索して出てきたイベントに行くことにした。そしたら、歌舞伎町の地下のクラブで、派手なメイクに、めっちゃ見えてる谷間に、タバコのある空間だった。もちろん高校生、中には中学生もいた。入った瞬間に完全に場違いだと思ったら、衝撃の言葉が飛んで来た。

「きゃー!ちょーかわいい!」

そして抱きつかれた。

大きくてプルプルで谷間見えまくりの露出度で、めっちゃ可愛くてめっちゃエロいギャルのお姉さんが、いきなりそう言って抱きついて来た。

頭のネジが外れた。

自分の容姿なんてコンプレックスでしかなくて、身体が弱点だから頭で頑張ろうとしてたけど、それが認められた?むしろ武器になった?もしそれが強みになるなら、オンリーワンにすらなれるのではないか。勉強は、勉強すれば誰でも出来る。しかし、ぼくにはぼくしかなれない。身体的特徴を活かそうと考えるようになった。

最初は、勉強以外でも勝負しようとは思ったけれど勉強を捨てたわけではなかった。そして、一度外に出るようになったぼくの行動力はどんどん増していた。だから、高校時代のぼくの校外活動は異様だった。東大の学生団体、高校生のイベサー、中高大学生のギャルサー、杉並区の中高生の委員会、芸能系の単発バイト、芸能系の中高生向きフリーペーパー作成団体、大学生と遊びに行ったり、気になる大人の経営者に会いに行ったりした。

その活動からいわゆる真面目タイプに対して思った。学ぶことは確かに大事だ。しかし、学歴は学歴重視の会社員になるか、研究者になるか、でしかいらないのではないか。大学に行っても、大した勉強をせず、無駄な遊びをする人も多い。高校時代に学生団体もギャルサーイベサーも経験したから大学生の遊びは興味がない。学歴に酔っていたり勘違いしてる人がいて、でも実際は中途半端なプライドと第一志望落ちたコンプレックスを抱えた、面倒な人が多い。言われたことはよく出来て、勉強は優秀でも、言われてないことを自らする能力はない。ロボットみたい

。真面目にやって真面目にやって、でもある時に自分の本当にやりたいことをしなかったと後悔しそう。もちろんみんながそうじゃない。一部に過ぎない。東大は確かに面白い人が多かった。しかし、東大に行くのは厳しいだろうと感じていた中で、大学生全体に対してこのような感情になった。

一方で、社会的にはダメなギャルや不良に対して思ったこと。未成年なのにタバコ吸ったり酒飲んだりは当たり前に悪い。何人とセックスしたか競ってるような馬鹿ばかり。最初はそう思った。しかし、話してみると人間味に溢れていて深く良い人が多かった。

例えば、中学3年生の女の子。背が高くて大人っぽく、見た目は女子大生のギャル。職業はなんとキャバ嬢。コンビニで買ったボトルの鏡月をダイレクトに飲む。それだけだと言うまでもなく悪いしヤバい子だ。しかし、そんな彼女には別の顔があった。シングルマザーの家庭に育ち、3人の小さな妹と弟がいる。送りお向かいや、料理などの家事をして、3人の面倒をみている。お金も必要だからキャバクラで稼いでいる。もちろん、大変な家庭環境だったら悪いことをして良いとは言わないし、良いことをしていれば悪いこともいて良いとは言わない。中3でタバコ吸って酒飲んでキャバクラで働くのは問題だ。しかし、家庭のこととか深く考えなくてよくて勉強をさせてもらえる家庭ってとても恵まれているし、勉強さえしていれば良かったからいざとなると何を学びどう生きたいかを大学生になっても考えられてないのは問題だなと思った。彼女の方が、人間らしいし、カッコいいし、大変だけど楽しく生きているなと思った。

結果、僕はどんどん勉強をしなくなった。数学に関しては、偏差値が30落ちた。一応、進学校の特進クラス。しょうがなく高3からは勉強を始めた。しかし、やる気が起きず、成績は上がらない。

「ぼくは大学は基本的に東大しか興味ない。でも、海外の大学なら行きたい!」

と父親に言ったら、

「何勝手なこと言ってるんだ!」

「そんな金払うか!どうしても行くなら自分の金で行け!」

と喧嘩になり、一応センター試験と上智大学は受験したけれど見事に落ちて高卒となった。

高卒で大手IT企業サラリーマンからYouTuberへ

高卒ニート|自称タレントと職業訓練とホームレス

高卒で特に就職もバイトもしないで実家暮らししていた。

マジでクズだった。

お金を稼ぐということを簡単だと思っていた。だから、すぐお金を稼いで家を出るつもりだった。しかし、金も実力もないところから稼ごうとすると、見つかるのは怪しい仕事ばかり。行動的で目立つ明るい障害者に集まってくるのは、怪しい人ばかり。ネットワークビジネスは11種類の勧誘を受けた。情報商材や詐欺は身近にあった。どれも足を踏み入れるギリギリで逃げられたが、実家暮らしの高卒ニートは続いた。

色んなところに行くし覚えられるから、イベント集客代行はお金になった。当時Facebookが友達になっている人全員に一斉にイベント招待を送る機能があって、1分で作業が出来るのに、40人来てくれて、1人500円バックで分給2万円。あとは、パソコンが得意だったから個人的にパソコン教室したり、SNSやブログのレクチャーをしていた。

そして、人に覚えられる、インパクトのある、自分を活かしたいと思っている中で芸能活動に興味が出てきた。浜田ブリトニーさんに会う機会があり、浜田ブリトニーさんのところでニコ生番組を開設した。自称タレントを名乗るようになった。

徐々に活動は増えていったが、都内で一人暮らしするにはまだ稼ぎが足りなかった。

そんな時、1人の女性に出会う。彼女は後に師匠と慕うことになるのだが、こう言われた。

「にしくんフラフラしてたらもったいないよ。プログラマーになりなよー。iPhoneのアプリでも作れば?」

えっ!?はっ?何を言っているのだこの人は?プログラマーってそんな簡単になれるの?iPhoneのアプリ作るってめっちゃ頭いい人がめっちゃ勉強して、何年もかかって出来るようになるとかじゃないの?

と思った。

しかし、どうやらハローワークの職業訓練というものがあり、そこでiPhoneアプリ開発の授業があって、しかもお金を貰いながら学べる上に、勉強後は就活のサポートまでしてもらえるというのだ。

迷わず行った。

と同時に、本気で勉強するため、後戻りしたり甘えないため、そして20歳のうちにさすがにそろそろ親離れをしなければと、家を出た。ホームレスになってみたかったから、最初はホームレスをした。

渋谷のコインロッカーで寝てみるという馬鹿な動画をアップしたりもした。ちなみに、終電過ぎの深夜、サラリーマンがぼくの寝ているコインロッカーを開けてしまって、見てはいけないものを見たような驚いた顔をしてそっと閉じた。不親切な対応かもしれないけれど、おかげで問題にならなかったのは良かった。

そして、ぼくが一人暮らしスタートに選んだのは、歌舞伎町奥のラブホ街にある、木造でボロボロの、トイレとシャワールーム共有家賃6万円の家だった。オーナーは台湾人で、所謂まともな物件じゃなかったけれど、修行部屋だと捉えてパソコンと寝るためだけなら良い場所の物件だった。

半年が経ち、職業訓練が終わった。

大手IT企業サラリーマン|ク◯ニ選手権とアダルトYouTuber

職業訓練が終わり、ある程度iPhoneアプリを作れるようになったので、ハローワークで就活を始めた。と言っても、1発で決まった。後に上場する、ITの大企業に就職した。

しかし、入社1日目にしてやっぱり自分はサラリーマンが向いてないなと感じた。早くも独立を目指す。

サラリーマンをしながら、臨時の仕事として六本木でコスプレしながらクラブダンサーをしていた。そして、アダルト業界の人が集まるクラブイベントを紹介してもらった。さらに、2回目のイベントからはなんと出演者になった。お客さんも、アダルト業界の人ばかり。そんな中、お客さんで来ていた人から驚きの誘いを受ける。

「全日本ク◯ニ選手権っていうのがあるんだけど出てみない?」

深く考えずYesって言っちゃっていた。そして出場することになった。そしたらまさかの勝ち進んだ。あっという間に決勝戦。相手はレズビアンの女性で、やっと負けた。しかし、2位。男で1位。日本一ク◯ニが上手い男としてアングラ界隈で有名になった。

「絶対にイカない女 VS 絶対にイカせる電マ」第三弾

の出演オファーが来た。当時普通にサラリーマンだったけれど出演した。せっかくならこっちの業界で言ったら面白いのではないか?障害者と性はタブー視されているから開拓したい!と思うようになった。アダルトグッズのショップにスポンサーになってもらい、セクシー女優さんとYouTubeをするという企画を提案した。そして、スポンサー型のアダルトYouTuberになった。当時、下ネタで検索すると、昔の深夜のお色気番組を切り抜いた無断アップロードくらいしかなかった。だから、簡単にトップを狙えると思った。読みは的中し、一瞬で100万再生を突破した。(現在は規制が厳しくなり大半は消された)

また、そのYouTubeの内容を文字起こしして加筆するアダルトライターとしての仕事も始めた。当時、副業禁止のサラリーマンだったけれど、辞めさせられる頃には辞めていいくらい稼いでいるだろうという自信と図々しさで続けた。

会社員として1年半働いて、22歳の3月31日に、同級生が新卒として社会人になるから、ぼくは逆のことをしたいと言って退社した。

フリーランスからアダルト業界へ

フリーランス|エンジニアと歌舞伎町ホスト

無計画に会社を辞めた。YouTubeは規制が厳しくなり、稼ぎは足りなかった。しかし、運よく知り合いからiPhoneとAndroid開発の仕事をもらえた。さらに、ビッグダディとトークイベントをする機会があって、ビックダディの紹介で歌舞伎町でホストも始めた。サラリーマンの頃と比べて、労働時間は減って稼ぎは倍になった。

それでもまだまだ困難じゃ物足りない。そう思っていたところ、SOD創業者の高橋がなりさんに会う機会をもらえた。

SOD専属監督兼男優

当時好きな女の子がいた。その人はある日から様子が変だった。なんと、セクシー女優になっていた。その人は悩んでいた。しかし、その道へ進んだことは後悔していなかった。悩んでいるのは、世間の目に対してだった。思っている以上に、偏見があったり、実家に帰りにくくなったり、ということに悩んでいた。

それを聞いてぼくは思った。障害者としての悩みに似ているなと。障害そのものは、20何年も障害と付き合って生きてるとある程度は慣れる。不便だけれど、不幸ではない。しかし、世間が障害者と見ることによる悩みというのはとても大きい。世間の目が障害を作っている。そう感じていた。だから、障害者に対する世間の目を変えたいと思っていた。

そこで考えた。どっちも世間の目を変えたいという動機なら、一緒にやちゃえ!と。障害者はタブーで、性もタブーだ。障害者 × 性なんて究極のタブーを変えるのは面白そうだ。マイナス × マイナスで、プラスにしてしまおう!と思って言った。

「ぼくもアダルト業界行くよ!そして、アダルト業界への世間の目を変えるよ!」

そしたらこう返された。

「馬鹿じゃないの!障害者がアダルト業界に行けるわけないじゃない!」

その日は、彼女の誕生日だった。24時間以上、泣いたり笑ったり大半は記憶をなくしたりして飲んでいた。

そんなことがあったから、僕はガチで監督兼男優になる気満々だった。そして、SOD創業者の高橋がなりさんにお会いする機会を得た。高橋がなりさんは、新しいもの好きの変わったもの好きで、それでありながら超論理的。自分に撮らせることで、業界に、世の中に、どういう新しい風を吹かせるかをプレゼンした。

よく聞かれるのが、アダルト業界に障害者を出演させるのは、20年以上前に販売停止になった有名な作品があり、長らくタブーだったのになぜ、にしくんは実現したのかということ。それにはカラクリがある。

小人プロレスしかり、見世物小屋しかり、そういったものが潰れたのは「障害者を笑い物にするなんて可哀想じゃないか!」という偽善者の声によるものだ。単なるアンチは無視すれば良い。しかし、偽善者の声は正義感から来ているから否定が出来ない。偽善者のありがた迷惑な横槍が一番面倒なのだ。だから、偽善者に偽善を言わせない構図を作れば、解決する。

そう。そのための、監督兼男優なのだ。可哀想という発言は、障害者が誰かの下で使われていないと言うことが出来ない。ならば、障害者の自分が監督として上に立ち、障害者の自分を出演させると、叩く対象がいなくなるのだ。

など、プレゼンをした結果、

「お前の作品を観てみたい!とりあえず一本撮って来い!うち(SOD)の社員を使ってくれ!」

となり、一本撮ることになった。それが、例の作品だ。そして見せると、

「俺は、努力すればなんでも出来ると思ってる。しかし、お前の真似は出来ない。これはヤバイ。うちと一年契約をしよう。お金はいくら欲しいんだ?」

と言われ、専属契約をすることになった。

ありがたいことにとても話題になり、当時の20歳前後はだいたい知ってくれて、世界数十ヶ国でニュースになった。しかし、DVD / Blu-rayが売れない時代。話題になって、違法アップロードされた無料サイトでの再生数は半端なく、若者の間での認知率は十分だったが、実際にお店でお金を払って買う業界を支えている40代、50代にはリーチしなかった。そりゃそうだ。性に恵まれてない人がストレス発散で見るのに、障害者の若者がリア中しているものにはお金を払いたくないだろう。1ヶ月1本の1年12作品で終わった。まぁ、それは予想通りだった。高橋がなりさんにもよく言われていた。

「お前の作品は、大きな話題にはなる。しかし、簡単には売れないだろう。ただ、この経験は確かに役には立つから、この経験を生かして次の世界で成功しろ!」

だから、どう次に行くか考えていた。しかし、次のステップへ行くのはそんな楽ではなかった。

アダルト業界引退後から現在(2020年)

再びのニート

アダルト業界時代、ほぼニートのような生活を送っていた。と言うのも、撮影時間は月1回の1日撮りで約12時間。企画を考えてまとめて、打ち合わせして、台本にして、など撮影前の準備が約12時間。撮った後に第一段階の編集完了したものをチェックして会議して最終形の相談をして、最後の確認に約12時間。つまり、1作品作るのに約36時間/月しか働いていなかった。他にもちょこちょこ仕事はしていたけれど、ほぼニートのような生活だった。それで、年収が約1000万円だった。正直、生活リズムも金銭感覚も狂ってしまった。

そして、引退後は普通の労働時間に普通の給料で働くのには躊躇ってしまって、しかしだからと言って何をするか決められず、ニートに戻った。NHKのバリバラでは準レギュラー最多出演となり、映画やドラマで俳優デビューもしたけれど、ちゃんとした収入にはならなかった。家賃と固定費込みで約20万円のところに住んでいたのを、シェアして貸したり、オンラインサロンと言いつつパパ活のようなことをしたり、社会不適合でクズなことをして乗り切っていた。それを、気が付けば引退後1年も続けていた。

IT企業執行役員

流石にこのままじゃダメだ。そう思っていたところに、新しい仕事の話が来た。IT企業を作るから、執行役員にならないかという誘いだった。現在日本にはプログラマーが足らず、これからどんどん足りなくなると言われている。プログラミング技術を身につけておけばとりあえず仕事には困らない。そんなプログラマー育成の営業としての誘いだった。そして、プログラマーとしても働かせてもらえるという話だった。しかも、執行役員で部長というポスト。プログラミングも大好きだ。だから喜んで引き受けた。

しかし、あまり上手くいかなかった。IT未経験の社長と女性役員2人。ITトークが通じなかった。3人はパリピだが、僕はビジネスパリピで素はゲームオタクでメカオタクのインキャ。立ち上げ時から入った会社には愛があったが、とにかくコミュニケーションが上手くいかず悩んだ。そして、立場故に知ってしまう闇。

仕事としてしっかりしようと努めたが、直属の上司から業務連絡を無視されたり明らかなパワハラ。そして、急な祖父の死の連絡と、ヤケ酒と、一連の流れで浴びた言葉と…壊れた。鬱やパニックやらを起こし完全に壊れていた。ベッドから起き上がれず、スマホも開けないほどに精神が壊れてしまった。48時間以上何も食べずベッドからも動いてないことに気付き、このままでは死ぬと本気で感じた。一応心理カウンセラーの資格を持っていて自己洗脳は得意だったので、どうにか少し回復して、精神科に行った。ようやく会社に連絡を入れれるようになった時は、気が付けば1ヶ月経っていた。もう、戻れない。思い出すだけで気が大きく沈み、何も出来ず気が付けば1日終わっている日々が続いた。そして、辞めてしまった。

CBDエバンジェリスト

精神が回復しない中、CBDというものを紹介された。

聞いたことはあった。しかしよく知らなかった。調べてみると、大麻草から取れる成分とある。しかし、いわゆるハイになるドラッグとして禁止されているのはTHCによるもので、CBDは健康に良いとされているし法律上も問題ないという。

では、実際に何に効くと言われているのか。調べてみると、病名が山ほど出てくる。多くの人に関係しそうな有名なものだけでも、ストレス、鬱、不眠症、ガン、HIV、てんかん、発達障害、アルツハイマーなどが並ぶ。さらに美容、ダイエットにも。なんだこの万能薬。怪しい。胡散臭い。そう思った。

しかし、NetflixやAmazon Kindleで調べてみると、どうやら本当に実例があるのだ。日本だけがダメ!絶対!と情報を遮断されていたが、世界は大麻関連ビジネスに注目して動き出し、グリーンラッシュ(ゴールドラッシュとシリコンラッシュの次の巨大ビジネス)という言葉まで生まれているのだ。さらに、2023年には10兆円規模の経済効果をもたらすと言われているという。世界が認めているし、科学的な根拠もある。それは信じるしかない。試してみることにした。

驚いた。本当に精神が回復した。ストレス、鬱、不眠症、ぼくには伊達じゃなく効果を感じた。そして、CBDを売りたい!CBDの良さを広めたい!とお願いした。それから約1ヶ月であっという間に実現した。CBDエバンジェリストという肩書をもらい、KOHEY NISHI’S CBD ONLINE SHOPというCBDのセレクトショップ(2020年3月現在VAPEのみだが今後商品を増やしていく)をオープンした。

今後の夢と野望

身体障害、発達障害、精神障害、LGBT

ここまで読んで、どう思われただろうか?

行動力が凄い!と言ってくれる人もいるかもしれないが、だいぶ社会不適合で問題な奴だ。そして、変なことばかりしている。昔は人と違うことがコンプレックスだった。しかし、今は人と違うことが快楽になった。

身体障害、発達障害、精神障害、LGBTという言葉がある。思えば、自分は全部当てはまる。身体障害は言うまでもない。発達障害は関わりがある人なら、いやこれを読んだだけでもADHDっぽいのがバレただろう。精神障害には去年末IT企業執行役員時代になり、一応まだ精神科へ通っている。

そして、LGBTに当てはまるというのは実は微妙にトランスジェンダーなのだ。というのも、B型のぼくに骨髄移植で入れた血は、A型女性のものだった。血液は女性なのだ。血液型占いは、日本と韓国にしか存在しない文化で、科学的には証明されていない。しかし、血液に記憶や性格が司る例は数多く報告されている。実際、カッコイイと言われないと嫌だったのが可愛いと言われても嬉しくなったし、性同一性障害のように悩むほどではないけれど男か女か選べるならどちらかと言えば女が良いと思うようになった。放射線治療や抗がん剤の影響も含めて、第二次性徴が不十分でもある。分かりやすい例が、すね毛を一度も剃ったことがないけれどツルツルだ。多くの低身長の人は、小さいけれど外見はおじさんで骨格も大人になる。KOHEY NISHIが小さい上に子供に近いのは、第二次性徴が不十分なのも影響している。

ムコ多糖症モルキオは日本に約30人しかいないし、小児がんも経験して生きてるのはおそらく世界で僕ぐらいだろう。アジア人は若く見られるから、自称「世界一子どもに見える大人」だ。日本のアダルト業界は、世界から特殊な目で見られていて、そこで専属の監督兼男優も世界に僕しかいない。ネットによって世界につながることが出来る時代、ロボットによって機械化出来ることでは人間が負ける時代、特異で奇抜で異様なことが価値になると思ったし、そうなることが嬉しさと楽しさに繋がった。そして、気が付けばこうなっていた。

夢と野望

「にしくん」から”KOHEY NISHI”にメイン活動名を変更した僕は一体全体何をしていきたいのだろうか?

正直、昔は人と違うことに悩んだ。差別や偏見というのは、意識的にも無意識にも数多く存在する。そして、見返してやりたいと思ってここまで来た。今は、人と違うことが嬉しくなった。障害者のイメージを壊していき、障害を羨ましいと思わせることが楽しい。障害に限らず、世間の差別や偏見やマイノリティーを変えていくことが好きだ。

じゃあ、世界を変えたいか、革命を起こしたいかと言われると、そこまで無責任な偽善はない。人間なんて自分とせめて身近な人のことで精一杯だろと思っている。

しかし、にしくんのおかげで勇気が出た!やる気が出た!という言葉をもらうようになって、とても嬉しく感じた。だから、僕が直接的に世界を大きく変えることは出来ないけれど、僕が身近な世界を変えることで、感化された人がその人の身近な世界を変えて、と連鎖を起こすキッカケになれたら嬉しいと思っている。だって、人それぞれ生きてく上で何かしらの障害は抱えている。

だから僕はマイノリティーや世の中の理不尽を変えていきたいし、タブーにも突っ込んでいく。

そして以下3つを掲げて生きている。

人生理念『ワクワクの拡大』

人生理念は『ワクワクの拡大』

自分自身も人々も、常にワクワクすることを探求する。好きこそ物の上手なれというが、ワクワクしていると上達するし、上手くいくし、失敗しても折れない。過程も結果も良くなる。ワクワクすることを増やしていきたいし、ワクワクしている人を増やしたい。

そして、ワクワクにはもう一つ意味を込めている。「枠々」だ。人は、勝手に人種の枠を作ることで差別したり、勝手に限界の枠を作ることで挑戦を躊躇ったりする。その枠を拡大させて壊してしまおうという意味だ。

将来の夢『世界的な偉人になって死ぬこと』

将来の夢は『世界的な偉人になって死ぬこと』

人生二度死ぬ論がある。一つは命が死んだ時。そして、もう一つは人々に忘れ去られた時。つまり、誰かの心に残っていれば生きているという考え方だ。僕は、寿命には期待していなかった。だから、この考えを知った時に感銘を受けた。長生きはしなくても良い。しかし、人々に強烈なインパクトを与えて、語り継がれる人間になりたい。そう考えるようになった。

この夢で大事なことは、世界的な偉人になることだけじゃない。死ぬことまで含めて大事な夢だ。僕は、国立がんセンターの小児科で育った。日本一のガンの病院。非常に重症な患者が集まる。周りもそして自分自身も、死を身近に感じて生きて来た。死について幼少期からずっと考えていた。自分の中で、死が生きる上での最大のテーマだ。

終わりよければ全てよしという言葉がある。やっぱり最後が一番記憶に残るし、最後が大事。死ぬ時に、生きた爪痕を確かに残したことを感じ生命としての死を迎えるのは問題ない!と堂々と死ぬのが夢だ。

世界には幼くして死んでしまった人がたくさんいる。生き続けた者として、彼らに恥じぬ生きた方をしたい。もし幼少期の友達に天国で会えるのなら、最高の土産話を持って行きたい。

座右の銘『最高の死を迎えるために今を全力で生きる』

座右の銘は『最高の死を迎えるために今を全力で生きる』

夢の話に繋がる。死ぬ時に後悔をせず、生命としての死の先にも人々に語り継がれ生きていると感じる偉人になるか否かは、今の積み重ねでしかない。しかし、努力するとか全力で取り組むとかって難しい。何を努力し、どう全力であるべきかも分からなくなる。だから、死というゴールを見据えて今を生きることにした。

生きてる以上必ず死ぬ。いつどう死ぬかを選ぶことは難しい。今を生き続けることですら簡単でない。だけど、死は一回しか訪れないし、終わりは強く心が動く瞬間だし、最後の記録される瞬間。だから、どうしたら死が最高になるかを考えながら今を全力で生き積み重ねていく。

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1 個のコメント

  • 面白くて引き込まれる文章でした
    にしくん がどんな方なのかイマイチ分からなかったのですが、とても興味が沸きました
    続きも楽しみです

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